本日も胡桃丸のお部屋へようこそいらしゃいました!
前回に引き続き辺境のお話ですが、今回は暑い土地のお話です。
舞台は火焔山。西遊記では牛魔王一味と孫悟空が熾烈な戦いを繰り広げた場所。ドラゴンボールではフライパン山として登場します。
「夏でもないのに蒸し暑く、暑すぎて作物も育たないため民は困っていた・・・。」(西遊記)
西遊記のあらすじを書いていると長くなるので、物語を知らない方、忘れてしまった方は、大変申し訳ありませんが検索してくださいませ。よろしくお願いします。
まぁそうは言っても、ごく簡単にあらすじを追うと、
暑くて民が困っている → なんとかしたい悟空たち → 芭蕉扇で煽げば火焔山の炎を消すことができるとの情報 → 持ち主である鉄扇仙人に芭蕉扇を借りようとする → 鉄扇仙人とその夫である牛魔王は悟空に恨みを持っている(息子の恨み) → 牛魔王一味と悟空たちの戦い → 鉄扇仙人が夫(牛魔王)を助けて欲しいと泣きを入れる → 悟空は芭蕉扇で火焔山の炎を消す → 民は平和に暮らせるようになり、三蔵法師一行は西へ旅立つ
だいたいこんな感じである。思い出せただろうか?
前置きが長くなってしまったが、ここからが本題の始まりです。
火焔山ってどこにある?
火焔山は中華人民共和国、新疆ウイグル自治区のトルファン(吐魯番)にある。山といえば山だが、見方によっては小高い丘と言っても間違いではないかもしれない。
周囲には何もなく、赤くひび割れた大地が広がるだけ。
火焔山は燃えさかる焔のような山肌をさらして、赤い大地に延々と続いている。
旅をした当時、現地の人から標高は約600mと聞いていたが、今あらためて検索したところ最高地点で831.7m、平均標高で約500mとのこと。
延長は約100km。奥行きは最大で10kmほどになるということである。
今はスマホがあれば、すぐに情報を得られるから便利であるね。
しかし、前回のノーザンライツ編でも書いたが、時代が変わってもリアルを体感することを忘れてはいけない。
リアルを体感せずに人の痛みや涙の理由を本当に理解することはできないのと同じように、五感でリアルを感じることは本物を知る唯一の方法である。
特に平和ボケした我々日本人には必要なことではないかと思ってしまう。この言葉の真意はまた別のお話で。
地図はぜひ航空写真に切り替えてご覧ください。周囲の状況がわかりやすいです。
わたしがトルファンまで辿った大まかな道程は、途中で立ち寄った場所を除くと、大阪国際フェリーターミナルから船で上海に渡り、鉄道で上海から西安、西安からトルファンまで、といった経路であった。
当時はフェリーの中で観光ビザを申請・取得できるので大変便利だった。領事館とのやり取りなしに、船内で、食べて飲んで、歌って眠っている間にビザを取得できるのだからありがたい。
トルファンは行きたい場所の一つではあったが、目的地ではなかった。この旅では、その後ビザを延長し、さまよえる湖ロプノールの場所を検証しつつ新疆ウイグル自治区を彷徨い、さらに西方へ向かうこととなる。
ロプノールの場所を検証しつつといっても、素人がやることなので大したことではない。
関係しそうな博物館に行ったり、本を読んだり。地図を眺めたりしながら場所を頭の中で考証したり。
「さまよえる湖」の著者であり、スウェーデンの地理学者である探検家、スヴェン・ヘディンの足跡を思い描いたり。古代遺跡である楼蘭のことを調べてみたり。その程度のことだ。
キャラバン組んで砂漠のど真ん中に踏み入る冒険の旅、などということではない。
むかし椎名誠さんがそんなことをやっていた記憶があるなぁ。
余談であるが、万里の長城につながる関として有名な嘉峪関や玉門関、莫高窟で有名な敦煌は西安からトルファンへの途上にある。敦煌は経路を南西に100kmほど逸れることになるので、途上とは言い難いか。
いずれにせよ、敦煌周辺をゆっくり巡ってみたい方は現地でランドクルーザーなどの車をチャーターすることをお勧めする。
わたしがツアー旅行を好まない性格であるためだが、時間にゆとりが持てるし、小回りが効いて他の場所にも立ち寄ってもらえるのがお勧めする理由だ。
わたしが当時行った方法なので、いまもそれが最良かどうかはご自身でご確認をお願いします。
西遊記のとおり現地はとてつもなく暑いのか?
はっきりいって、暑い。
わたしの記憶にあるのは47度。
わたしは気象観測に興味があるわけではないので、火焔山付近で気温何度であるかなど確認したことはない。旅のアイテムに温度計はなかった。
スマホはなかった。日本でガラケーがようやく普及し始めた頃。そんな時代だ。
当時トルファン中心街の交差点には、教室で見かけるものより小さな黒板が設置されていた。そこに気温を記入する係員がいる。簡単なものだが、椅子と日除けのパラソルもあった。
見張っていたわけではないので正確性には欠けるが、係員が常駐しているわけではなく、日に3回ほど気温を書き換えにくるのである。
そこで見かけた最高気温が47度であった。なので正確な気温かどうかはわからない。
暑いのだが、日本で感じる暑さとは質が違う。まず湿度が低い。タクラマカン砂漠辺縁の町である。それと無風状態が少なかった記憶がある。いつも風を感じていた。
さすが「火州」、「風庫」と呼ばれる地である。
なので、季節は夏であったが、日差しを避ければけっこう快適に過ごせてしまう。わたしは暑さに弱い方だが、暑さに苦労した覚えはない。
ただ、日差しが高い時の地表付近の熱放射は相当なものであっただろうと思う。
一転して夜になると、一気に気温が下がり、寒いまではいかないが、一枚羽織ものがあってもいいように感じた夜もあった。
この旅の友はライカM2であった。
当時モノクロームが好きで、カラー写真はほとんど残っていない。今になってみると、ちょっと残念な気もするが仕方あるまいなぁ。
旅の目的地はどこ?
わたしはトルファンに2週間ほど滞在した。2度目の滞在を含めるともっと長くなる。
ノーザンライツ編でもチャーチルにおおよそ2週間滞在した。特に決めているわけではないが、気に入った場所にはおおよそ2週間である。
時間を気にしない旅だから、2週間と言わずに1ヶ月でも2ヶ月でもいいのだ。問題があるとすればビザのことだけ。だが大抵の場合、そこは目的地ではなく通過点である。
最初から最終目的地を決めて旅していたわけではない。ただ、ここで旅を終わりにしようという気持ちではないから通過点なのだ。
あまり長い間同じ土地にいると、われわれバックパッカーは「沈没」という言葉を使っていたが、まさに沈没のおそれがある。
居心地が良くてそのまま動けなくなってしまうのだ。旅行者によっては、まるで行き先を見失ったかのように、何をするわけでもなく、ただずっと同じ場所に留まる人もいた。
誰にも干渉されず、仕事や学業に追われることもない。時間感覚さえ独特のものになってゆく。
犯罪を犯すわけではないが、三大欲求の赴くままに生きる。寝たい時に寝て、起きたい時に起きる。食べたいときに食べ、飲みたい時に飲む。気の合う者同士で夜を過ごす。
いわゆる普通の生活を営む人にとっては眉根を寄せることかもしれないが、はっきりと人間的である。
滞在の長期化も、その地で骨を埋めるつもりで、例えば人生の伴侶に出会い、そこで生きていく決心をした、または自らの使命に気付き、その土地でやるべきことを見つけた、など、幸せなものであればいい。
十人十色で、伴侶を見つけて更なる旅に出た人もいたし、伴侶とともにその地で生きていくことを考えるという人もいた。その土地に貢献するために一旦帰国し、仕事のコネクションで資金集めをするという人もいた。
だがその反面、人間的ではあるが、あまり良くない場合もある。
滞在が長引くにつれて、虚ろな目で空を見上げたり、道端に座ってただ通りを行き交う人々や車を眺めていたり、まるで生気がない。
生きてはいるが、なぜそこにいるのかわからない。旅の目的は何だったのか。
宿には多くの旅人が出入りする。
後から来た旅人が先に宿を去ってゆく。去り際に「いつまでいるの?そろそろ出発した方が良くないか?」などと声をかけられても、彼や彼女にその場を離れようとする意思は見られない。
そんな彼らは多くを語らない。ただそこで息をしている。ただそこで生きている。
彼らに目的地はあったのだろうか。これからどんな人生を歩むのだろう。じっと見つめる先には何が見えているのだろうか。
宿の庭先で洗い終わったばかりのジーンズを干しながら、わたしはそんなことを考えていた。
乾いた風が彼らの髪を揺らしていた。
人はみな、寂しさや、整理しようとしてもしきれない得体の知れない何かを、自分の内に飼っているのかもしれない。
得体の知れない何かは、時の経過とともに存在が薄くなったり、死んで風化していくのだろうか。それともいつの間にか、内の奥底に入り込み、本人も気づかないままいつまでも飼い続けるのだろうか。
あのときの彼らは、今どこで、何を思い、どうしているだろう。
彼らの目は、時間の経過などお構いなしに、今でもわたしを捉えて離さない。
若かりし日の自分に向けて
わたしの旅はせいぜい1年だが、他国の人々は違う。
「だいたい3〜4年かな。」「5年ぐらいかな。」「気が済むまでさ。」という答えが返ってくるから驚く。年齢も若い人ばかりではない。さまざまだ。
親の言うこと聞いて、ちゃんと勉強して、就職して、一生懸命働いて、ささやかな生活こそが幸せだ、そんな価値観にどっぷりと浸かりながら、わたしは成長した。
気が済むまで、と言ってのける彼らの眼差しは、そんな価値観に反抗心を持ちながらも抗えずに生きてきた、わたしの内の奥底に届いた。
同時に、傷口に粗塩を擦り込まれている感じもした。複雑な心境に言葉を失った。
もうそれ以上、彼らとの会話に戻ることはできなかった。
社会の成熟度が違うのか、世の価値基準が違うのか。自分の旅にそこはかとない後ろめたさを感じていたわたしには、彼らが羨ましい以外の何ものでもなかった。薄汚れた自分とは違って、彼らが輝いて見えた。
こころが痛かった。
自分の旅が有限であることが寂しかった。帰りたくないと思った。
このままずっと旅を続けていたい、どこまでも行ってしまいたい、と思った。
行き先などありすぎてキリがないのだから。
思い切りやる、思い切ってとことんやる、というのはこういうことではないのか。その先に何があるか、どうなってしまうかなどは二の次で、誠心誠意、心血注ぐものではないのか。
役に立つか立たないかなど、やってみなければわからない。
なぜ思うように生きられないのか。生きてはいけないのか。
あの頃に戻って、トルファンの乾いた風に吹かれながら、若い自分の話を聞いてやりたい。
悩んでばかりで、何もできなくて、どうしていいのかわからなくて、途方に暮れていたあの頃の自分。
先の見えない不安がいつも目の前にあったあの頃。自信がないことを必死に隠そうとしていたあの頃。
そんな情けなく、ひ弱な若者と、新疆啤酒(ビール)でも飲みながらゆっくりと話をしてみたい。一緒に泣いてやりたい。バザールでケバブを食べながらでもいい。美味い店を、いい親父さんを知っている。
今のわたしなら少しは相談に乗ってやれるだろう。一晩で終わらなければ、その次の日も、またその次の日も、話を聞いてやろう。ゆっくりでいい。どれだけかかってもいいから。どうせ、時間を気にしない旅なのだから。
話し終えた若いわたしは、その後、どんな旅を続けたろうか。どんな人生を歩んだであろうか。
今のわたしと一致するだろうか、それとも。
わたしはもう一度会いたい。あの情けなく、ひ弱で、泣き虫だった、あの頃のわたしに。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。
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